2023年哈尔滨景点导游词(8篇)
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哈尔滨景点导游词篇一
你们好!我受旅游、接待部门的委托,对光临名城曲阜参观游览的各位佳宾表示热烈地欢迎。我有幸为大家导游陪同参观,十分高兴,这是咱们共同颀赏学习的好机会。看后请留下宝贵意见。
我们此刻看孔庙。
孔庙,又称至圣庙,是祭祀孔子及其夫人亓官氏和七十二贤人的地方。孔庙同北京的故宫、河北承德市避暑山庄并称中国的三大古建筑群。专家对孔庙讲了四名话:建筑时光最久远、最宏大、保存最完整、东方建筑特色最突出。从孔庙可看出两个问题:一是孔子对中国乃至东方文化的巨大贡献;二是中国在历史上就有能工巧匠。
孔庙始建于公元前478年,孔子去世的第二年建庙。在孔子故居建庙堂三间,陈列孔子的衣、车、书等,“岁时奉祀”。历代皇帝对孔庙都有扩建,计大修15次,中修31次,小修数百次到达此刻的规模。孔庙仿皇宫建筑之制,分三路布局,九过院落,共有房屋466间,门亭54座,东西相对贯穿在一条中轴线上,有碑碣近千块,占地327。5亩,长达两华里又150公尺。此刻看到的孔庙是明弘治年间的规模。解放后国家多次拨款维修保护。我国首批公布的全国重点文物保护单位,1994年12月列入世界文化遗产,成为联合国保护的文物单位,孔庙建筑时光之久远,规模之宏大,保存之完整实属世之罕见。
神道。“万仞宫墙”前古柏苍劲的这段路为“神道”。重要的庙宇前都有专开的尊敬灵通之道,称“神道”。
万仞宫墙。这道门是曲阜明城正南门,也是孔庙的第一道门,上悬“万仞宫墙”四个大字,系清乾隆皇帝的御笔。它来源于孔子得意弟子子贡。鲁国大会诸侯时,有人提出子贡的学问博大精深,可与孔子相提并论,子贡在场,立刻站起来说,我可不敢与俺老师孔子比,人的学问好比一堵墙,我这道墙只有一仞之高,俺老师的墙有数仞之多。就是说,我的学问等于一肩膀头子高,一目了然没什么深奥的;孔子的学问有我数倍之多,经过详细的研究,全面的探讨,才能了解他的全部,入了门以后,才能看到宗庙之美,在门外头你是看不到的。后人为了形容孔子的学问高深,从夫子之墙数仞,到“百仞”、“千仞”到明代皇帝封孔子为“天下文官主,历代帝王师”,封孔子学问有“万仞”,赞颂孔子学问有一万个八尺,往上看,看不到顶,亦说此墙深壁高垒十分坚固。这四个字原为明钦差所写,乾隆为表示他对孔子的重视,亲书“万仞宫墙”换上了他的御笔。
金声玉振坊。此坊建于明代,为表达孔子学问精湛而完美,如同奏乐的全过程,自始至终完整无缺。古乐是以敲钟开始,钟起“始条理也”,是击磬告终,“玉振”为磬落的声音,称“终条理也”,赞扬孔子的学问是集先贤先圣之大成,所以称“金声而玉振也”,“金声”钟的声音,始,“玉振”磬的声音,终。这也是办事要“有始有终”成语的来源。“金声玉振”是明代大书法家胡缵宗题定的。
“二柏担一孔”。过玉振坊这个单孔的石拱桥,东西各有一棵古柏,所以人称“二柏担一孔”。这桥名曰:“泮水桥”与行宫旁泮水池的水相通,因之演义为“盼水”。过去读孔孟之书,考上高等学府叫“入盼”,做官的盼高升,做买卖盼发财,过日子盼兴旺。
下马碑。庙墙外东西各立一块石碑,公元1191年专立的下马碑,下轿碑。西边的碑早毁坏,东边这块碑上写“官员人等至此下马”。过去文武官员、庶民百姓从此飘过下轿下马徒步而行,以示对孔子、孔庙的尊敬。
哈尔滨景点导游词篇二
金声玉振坊建于明代嘉靖十七年(公元1538年),“金声玉振”四字为明代学者胡缵宗手迹,坊上有平面浅雕云龙戏珠,柱顶各设圆雕“辟邪”一只,俗称“朝天吼”,坊后有一座单孔石桥,上设龙陛,名曰“泮水桥”,桥下泮水原上游接古泮池,下游流经明城正南门西水门入护城河。此桥建于清康熙十六年(公元1677年)。
“金声玉振”四字出自《孟子·万章下》,孟子说:“孔子之谓集大成。集大成也者,金声而玉振之也。金声也者,始条理也,玉振之也者,终条理也。”意思是说孔子集圣贤之大成,始终而一。“金声”原意是指我国古代乐器“钟”发出的声音,“玉振”原意是指我国古代乐器“磬”发出的声音,在古代奏乐时以击“钟”为始,击“磬”为终,金声玉振的原意为一首完善的乐曲。孟子将孔子思想比喻为一首完美无缺的乐曲,在那里借用孟子语意,是说孔子思想完美无缺,集古圣贤之大成,以到达绝顶的意思。
棂星门
棂星门建于明代永乐十三年(公元1415年),原为木质结构,清代乾隆十九年(公元1754年),衍圣公孔昭焕重修孔庙时,换成石柱铁梁。四根石柱顶端为四大天将,中间平梁上是火焰宝珠,以象征此门由天将守卫而成为参天立地的天门。
棂星,即天田星,最早见于史料的有汉高祖命祀灵星,凡祭天先祭灵星,古人认为灵星“主得士之庆”,专门管官的星。宋仁宗天圣六年(公元1028年),筑郊台外垣置灵星门,即在祭天之台的外墙置灵星门,形如窗棂,故曰“棂”。孔庙设棂星门,意为祀孔如祀天,此见于宋《景定建康志》、《金陵新志》所记。另外,孔庙有碑记:置棂星门“取其疏通之意,以纳天下士”,无论任何地方,只要设有棂星门,那么它的门扇必须是由棂子结构而成,因此有疏通之意,孔庙取此意,以招引天下的文人学士都来学于此。
棂星门外东西两侧,各有一幢下马碑,上刻“官员人等至此下马”,在封建社会,所有来曲阜祭孔的官员,无论职位高低,来到孔庙前见到此碑,须文官下轿,武官下马,以示对孔子的尊崇之意。此碑始立于金明昌二年(公元1191年),现仅存东面一幢。
太和元气坊
太和元气坊建于明代嘉靖二十三年(公元1544年),全为石质结构。“太和元气”四字为当时山东巡抚曾铣手书。
“太和”指天地、日月、阴阳会合之气,“元气”原意为构成世界的原始物质,之后,一些唯物主义者将“金、木、水、火、土”这五行称为“原气”,世界上万事、万物都是由五行构成。在那里,“元气”为天地、日月、阴阳会合之气,是生长万物的根本。“太和元气”也就是说孔子思想体现了整个人类思想最精华、最高贵的一面,如同天地生育万物一般,能使人类思想到达一种至高无上的境地。
太和元气坊后为“至圣庙”坊,原名为“宣圣庙”坊,始建年代未查到记载,明弘治十六年(公元1503年)的庙图上已有“宣圣庙”坊。清雍正七年(公元1729年)改“宣圣庙”为“至圣庙”。此坊为汉白玉石质。“至”即至高无上的意思。
太和元气坊位处孔庙第一进院落。此院东西各有一座木坊,东为“德侔天地”,西为“道冠古今”。此二坊建于明代永乐十三年(公元1415年),清雍正七年(公元1729年)重修,三间四柱,上方是牌楼,六重四拱,坊下各饰有八只石雕怪兽,中间四只为“天禄”,两旁四只为“辟邪”,异常古拙。
哈尔滨景点导游词篇三
棂星门。明代所建,公元1754年重修,由木制改铁石的。“棂星门”系乾隆御笔。相传天上星系“有二十八宿”,其中,有个掌管文化的星叫“棂星”,又名“文曲星”、“天振星”,把孔子与天上管文化的星联系起来,说文化方面他是最高的,如过去祭天,要先祭“文曲星”,有尊孔如尊天的说法。
太和元气坊。这坊是明代公元1544年所建,极赞孔子的思想,主张如同“太空宇宙能哺育万物。天地之合,四方之合,阴阳之合”,称“太和”之气是最基本的东西,宇宙之太和,人间之元气。“太和元气”系山东巡抚曾铣手书。
至圣庙坊。明代所建“至圣庙坊”,是汉白玉的,上饰火焰宝珠。
德侔天地,道冠古今。这道院的东西对衬各建一处很奇特的牌坊,木制角棱环绕,千头万续,下有八个怪兽,叫“天龙神狮”,相传它威严灵感,可驱除邪恶,匡扶正义。东边牌坊上书:“德侔天地”,说孔子的思想主张给人类的好处如同天高地厚,功德能同天地相比。西边的牌坊上书“道冠古今”,赞孔子思想、办法古今都是盖世之冠。
圣时门。三门并列,四道台皆同上,中央盘龙。此门命名来源于孟子,对古代四位圣人伯夷、伊尹、柳下惠、孔子,孟子把四圣人的圣迹归纳为四句话:伯夷圣之清者也,伊尹圣之任者也,柳下惠圣之和者也,孔子圣之时者也。“圣时”极赞孔子思想主张经久不衰,是适合时代的圣人。皇帝来曲阜朝孔要行“三跪九叩大礼”,走圣时门;历代“衍圣公”出生时打开“圣时门”,除这两种状况外,此门不轻易开启。都走快覩门、仰高门。
快覩门,取先睹为快之意。就是说孔子的学问“五经四书”,谁先学谁先有文化,谁先学谁先有知识,争相学习,以先见到先读为快乐。
仰高门。根据颜回赞扬孔子的一段话命名的。颜回说,夫子之道,仰之弥高,钻之弥坚。赞孔子学问向上看不到顶,叫“弥高”,学起来文言文很难懂,叫“弥坚”,高不是高不可攀,经过努力是完全能够学到的。颜回说“夫子循循然,善诱人,博我以文,说我以礼。”俺老师循循善诱,教我以文化,施我以礼节。
汉石人。仰高门里亭子里有两位历史价值很高的汉石人,一位是“亭长”,(汉代地方小官),一位府门之卒,都是鲁王墓前守卫的。石人被历代金石学家所重视,对研究汉代服装和文字有重要价值。
哈尔滨景点导游词篇四
欢迎大家来到这!我是你们的导游,我姓x,大家可以叫我小x。为了便于大家参观游玩,下面我首先大家介绍一下。
哈尔滨极地馆是哈尔滨国际冰雪节四大景区之一,占地1.6万平方米,总投资金额2亿元人民币,是集极地动物展示、极地景观、互动体验于一体的中国首家情景式极地主题公园。在哈尔滨极地馆不仅可以观赏极地动物,还能真正走进极地世界,置身于冰的世界、雪的海洋,与北极熊、白鲸、企鹅、海狮等极地动物真正生活在一起,是国内首家情景式极地主题乐园!
哈尔滨极地馆内设环球旅程,按剧本故事编排设计。创建了“南极企鹅岛”、“北极动物家园”、“欢乐海狮王国”、“大兴安岭”、“鲸鱼湾”等十余个休闲体验区。这里有世界唯一的极地白鲸水下表演和中国第一对儿美女驯养师,她们与两只白鲸宝贝共同演绎的“海洋之心”令人震撼!首只诞生于内陆城市的南极小企鹅曼波成为哈尔滨城市旅游吉祥物。中国最活跃的北极熊兄弟和欢乐的海狮明星将带领游客一同体验真实的极地生活……
乘坐破冰船,在呼啸的寒风中,来到“南极企鹅岛”,这里有首批登陆中国的最纯正的南极企鹅家族。在这儿,它们可以和自然界中的企鹅一样谈恋爱、结婚,还能生小宝宝呢。因为在南极它们只能看到黑色和白色,所以如果您穿颜色鲜艳的衣服来参观,它们一定会马上凑到您身边,追着不放的。
哈尔滨极地馆地处北纬45度45分,这里冰川林立,是离极地最近的极地体验馆,特殊的地域优势使得这里的极地动物能够保持自然本色。就说“北极动物家园”的霸主北极熊吧,我们的大宝每天不是游泳、潜水、就是打架,打到兴起的时候还会突然扑到展窗上,吓的大家连声惊叫。更好玩的是每天早上它们都要洗脸,用熊掌沾点水在脸上不停的搓,直到它们z自己认为干净了才行。
在北极熊展区的对面儿住的是国内首次引进的加拿大纯种北极狼。它的引进也使我们馆聚齐了南北极的所有动物。狼的眼神在自然界中被认为是最狡猾、凶残的,令人毛骨悚然。但他们也害怕与更勇敢、锐利的眼神相对,为之所折服。你有胆量来挑战一下它们吗?也许胜利就会属于你!
还有更精彩的,那就是我们这儿的白鲸表演了。我们不惜花重金为两只白鲸宝贝建造了一个中国唯一的白鲸水下表演秀场。这个秀场的亚克力玻璃总价400多万元人民币!想想看,当人置身于水下,满眼全是蓝色的海水,就像是真的来到冰海深处一样,令让人震撼。白鲸和驯养师会在泰坦尼克号主题曲的伴奏下,来个特别浪漫的海洋之吻,很多情侣在这个时候都会情不自禁的拥抱在一起的。更神奇的是,我们这两只白鲸会在水下吐水圈。那水圈象天使的光环一样会一点点变大、一点点上升,据古老的传说中说如果看到白鲸头顶出现这样光环的时候,您许下心愿,心愿不久就能实现啦。
哈尔滨极地馆的海狮表演也是十分火爆。两只海狮的争霸比赛,现场还会请出游客和海狮来比试比试呢。
这里还可以看到中国唯一的水下冰灯,不仅可以享受大兴安岭原始森林特有的暴风骤雨,而且还能看到漫天飞雪的壮观景象。
今天我的讲解就到此结束了,下面是大家自由参观的时间,我们大概在30分钟后在门口集合,希望这次参观能给大家留下一个深刻的印象,预祝大家能玩的开心,谢谢!
哈尔滨景点导游词篇五
欢迎大家来到这!我是你们的导游,我姓x,大家可以叫我小x。为了便于大家参观游玩,下面我首先大家介绍一下。
哈尔滨极乐寺是东北四大著名寺院之一,与长春般若寺、沈阳慈恩寺、营口楞严寺,并称为东北四大佛教之林,并居于四大佛寺之首。极乐寺始建于本世纪20xx年代,已经历了70多年的沧桑岁月。极乐寺占地面积57500平方米,建筑面积3000平方米,分为正院、东跨院、西跨院和塔院四部分。极乐寺是全国汉族地区重点寺庙之一,已被定为黑龙江省省级文物保护单位。[1]
极乐寺是由北方名僧天台宗第四十三代宗传弟子倓虚法师创办的寺庙。整体设计、布局和建筑结构,均保留了我国寺院建筑的风格和特点。
寺院座北,面南临街。极乐寺的牌匾题字出自清末著名实业家张謇,进入山门,首先见到的是钟楼二楼。庙庭内,横向分主院、东跨院、西跨院三部分。主院建筑1800余平方米,分四重大殿:一为天王殿,正中供弥勒佛,东西有四大天王;二为大雄宝殿,是全寺最大的殿,供释迦牟尼;三为三圣殿,四为藏经楼。天王殿前方左右为钟鼓楼。院内两侧尚有配殿。该寺为黑龙江最大的近代佛教寺院建筑。东院内建有著名的七级浮屠塔。
每年农历四月初八、十八、二十八的庆佛日,极乐寺都要举行盛大的庙会。[2]
极乐寺始建于1921-1920xx年,20世纪初,中东铁路修建,沙俄等帝国主义入侵,大量侨民涌入,哈埠曾出现过13个国家的领事馆,外国传教士利用不平等条件攫取的条件,在大直街上先后修建了三座东正教堂和一座天主教堂,一座基督教堂。当时民间传说,南岗是潜伏在松花江南岸的一条土龙,是哈尔滨的风脉所在。洋教堂正建在龙脊上,变白坏了哈尔滨的风水。于是人们呼吁建一座佛寺,以震慑洋教堂的兴盛之风。这就是哈尔滨极乐寺的兴建的“缘起”。
1920xx年(民国20xx年),中东铁路稽察局局长陈飞青,是笃信佛教的居士,他首倡在哈尔滨建立一处大庙。陈飞青还推举中东铁路护路总司令兼东省特别区长官朱庆澜出面发起筹建。陈飞青又到北京晋见北洋军阀执政段祺瑞的秘书马冀平,请求由锈路局拨款资助修庙,马冀平赞同了陈飞青的请求。
1920xx年,陈飞青召集各机关要人开会,议决买一块地皮,请交通部部长叶恭绰拨款5万元,并将庙名定为极乐寺。“极乐寺”一名,因第一任方丈为佛教天台正宗第四十四代倓虚法师;又因第一坛开讲的内容为阿弥陀经,加之倡议发起人陈飞青居士信奉净土,都与极乐静土相关联,故名。
1920xx年6月17日,极乐寺工程开始动工。
同年11月,名僧倓虚和尚来哈尔滨,主持修建极乐寺。
佛教会成立
1920xx年农历正月底,极乐寺在哈尔滨道外三道街办起一所义学性质的佛教学校(附设在佛教宜讲堂内)。倓虚请奉天(今沈阳)太清宫小学校长张乐西任校长兼讲儒学。
同年7月,由当时社会名流、前清遗老、光绪状元张謇题写了“极乐寺”匾额。“极乐寺”是3个1米见方的大字,笔力苍劲浑厚。
同年8月,中东铁路护路军参谋长张焕相在北京定购八尊佛像及梵钟等运抵哈尔滨,置于极乐寺内。
同年10月26日(农历九月二十八日),极乐寺寺庙建成并举行开光。极乐寺坐落在今哈尔滨市南岗区大直街东端尽头,占地26000平方米,其中主院占地18000余平方米。山门、天王殿、大雄殿和三圣殿等主要建筑分布在中轴线上。山门为牌坊式。进山门,东有钟楼,西有鼓楼,中间是寺内第一大殿—天王殿,天王殿后面是主殿—大雄殿,大雄殿之后为三圣殿,三圣殿后为藏经楼。极乐寺整个建筑,典雅端庄,金碧辉煌,保留了我国寺院建筑的风格和特点。
诸佛开光之日,寺僧约300余人诵经或过斋堂,讲佛课。倓虚担任首任方丈。
义学性质的佛教学校由佛教宜讲堂迁至寺内,改为佛学院。
同年,哈尔滨佛教总会成立。该总会设在极乐寺内,以朱庆澜为会长。
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哈尔滨景点导游词篇六
あなたは江南を旅したことがあるかもしれません。あの煙雨の中の青い瓦の壁、小さな流れの流れは、穏やかで穏やかな雰囲気を醸し出しています。千年の古都を見物したことがあるかもしれません。あの広々とした青空の下の彫刻棟、黄瓦の軒は堂々としていて威厳があります。ハルビンはあなたの前に現れているのは別のスタイルと魅力です。
ハルビンはとっくに1曲の《太陽の島の上で》のため国内外を風靡して、澄みきっていて訓練した松花江と真珠の類のきらめく太陽の島はすでにハルビンの優美な自然の風景のシンボルになりました。しかし、友達が知っています。ハルビンの魅力的な建築芸術も魅力的です。建築芸術といえば、都市の建設史に触れないわけにはいかない。中原から遠く離れていても、必要な文化交流が不足しています。しかし、ハルビン地区にも慎み深い人が住んでいます。
10世紀の30年代、女真人はかつてここで阿勒锦村を創立しました。12世紀の初め、金人の後裔を粛粛して今阿城県白城子に都を建てて京会寧府に行きます。その後、ハルビンは徐々に発展しましたが、19世紀末までは、ハルビンはまだ知られていない小さな漁村であり、中東鉄道の建設が都市発展のきっかけとなりました。100年前の松花江のほとりで、勤労者たちがここで漁猟と牧耕をし、悠々たる生活を送っていたと思います。
ある日、ロシアからの視察船が川をさかのぼって、この桃源郷を発見しました。そこですべてが変わったのです。隆隆という汽笛の音がこの名も知られていない小城を新たな発展の道に押し上げた。もちろん発展の中にも屈辱と無力が交じっている。ハルピンはこのような伝说的な都市であることに决まっているかもしれません。その建筑芸术は最初から强い舶来文化を持っています。
中原の濃厚な文化雰囲気を遠く離れているので、思想と観念の面では束縛が少なく、新鮮なものを受け入れやすいです。ハルビンは受動的に開放された状態で、西欧、ロシア、日本の建築文化を広く吸収して、今日の色彩豊かな建築様式を次第に行程したと言えます。そしてこのような歴史があるからこそ、ハルビンの建築はこのような濃厚な異国情緒を持っています。ハルビンの建築は大体近代と近代の二つの発展時期を経験しましたが、その近代建築の発展は初期、発展期と後期のいくつかの段階を含みます。私たちがよく知っている「異国風情」とは、その多様な建代建築のことです。
1898年から1917年までは、ハルビン近代建築の発展の初期であり、その建築様式が確立された時期でもあります。この時期は中東鉄道の建設及びロシア勢力の拡大に伴って、阿東正聖堂、鉄道従業員住宅と高級官吏住宅及び当時西方で盛んに行われていた「新芸術」風の公式建築を興しました。例えば、道路システムに所属する鉄道管理局ビル、駅、鉄道局旅館、デパート、鉄道技術学校、鉄道ビジネス堂などです。これらの建物は初期のハルビン建築の基本的な姿を構成しています。
1917年から1931年まではハルピン近代建築の発展時期です。1917年にロシアで10月革命が起こったことはよく知られています。1920年に中国政府は中東鉄道の主権を回復しました。以来、ハルビンは10余りの国家領事館と400余りの外国資本投資企業を持つ大都市に発展しました。この時期の各国の文化のとけ合うことは非常に明らかで、建物は依然として教会堂を主として、正教会だけを動かして改築して、拡張して、18基新築しました。建築の初期のロシア式と「新芸術」の風格が主導的な地位を占めているのと違って、この時期は依然として上述の風格を踏襲していますが、もっと多い式の折衷主義の風格は建築の中に溶け込み、そして次第に主流になりました。1931年から1949年までは、式近代建築の発展の末期と考えられています。周知のように、九一八事件の後、ハルビンの建築様式は新しい変化がありました。日本の30年代の近代的な建築はハルピンに建設されました。1946年にハルビンが解放されましたが、都市はまだ調整時期にあり、1949年に新中国が成立するまで、ハルビンは新たな現代建築時期に入りました。
(東方モスクワ)ハルピンはもともと多くの雅号を持っています。「東方モスクワ」もその一つです。ハルピンの街を歩くと、目に飛び込んできた精巧な建物ではないことに惹かれます。ロシアの雰囲気が強い建物で、主に木造建築及びレンガ造りの教会、住宅及びレストランです。ハルビンに行ったことがない人でも、「ラマ台」は1899年に建てられた聖ニコラ教会で、今日の博物館広場にあります。この木造の乾式テントは、「東方モスクワ」の象徴とも言えるように叫んでいます。残念なことに、「十年動乱」は取り除かれました。永遠に取り返しのつかない痛恨のことです。
今日の友達は写真と模型(現存するハルビン建築芸術館)からしか道を案内できません。この建物の平面は八角形で、東の翼は聖壇で、その他の三翼は入り口を設けます。整然とした丸太のレベルで壁を作り、豪放で豪放な気質を見せている。主な入り口の上の階はそびえる時計台で、下に大きな時計がぶら下がっています。両側にはそれぞれ何口かの小さい時計が掛けられています。夕日の中の雄渾な晩鐘が鳴ると、陽光の真上の三つの小洋葱のような屋根がそのようにひらひらとして見えます。建物の真ん中には中に収縮する八面体ドラム座がそびえています。ドラムの上は高いテントの天井で、その頂部は小さなオニオンの頭の形で終わり、屋根の形をより豊かにします。当時、この優雅で繊細な建物はどれほどの敬虔な信者に心の安らぎを与えたか分かりません。
もう一つの濃厚なロシア風の建物は聖ソフィア大聖堂です。教会堂の平面は十字形で、壁は清水赤レンガである。建物全体の注目を集めているのは中央にそびえる巨大で旺盛な玉葱の頭の形をしたドームで、16面体のドラムの上にあり、四翼校長の彭尖頭の統率となっています。この教会の精巧な煉瓦造りの技術は厳密で完璧なビザンチンの姿とともに、「東方モスクワ」のもう一つの標識となっています。
この2つの優雅な聖堂のほかに、東大直町尚の聖母守護聖堂、ハルビン遊園地内の聖母昇天教会堂、士課街の聖アレクシェエフ教会堂があります。これらの建物は全部ロシア式東正教会堂の傑作です。魅力的なスターリン公園を歩くと、緑の茂みに映える小さな建物が見られます。30年代に建てられたロシアの民風豊かな河畔公園ホテルです。この小さいレストランはもっと上品な芸術小物のようです。特徴的なのは、木の柱の外廊の柱飾りで、それは孔雀が羽根を広げたような尾飾りで、羽の毛に透かして飾って、金色や青などのきらびやかな色で飾っています。時間が風にそよそよと流れていくようです。静かな自然の風景の中で、その入り乱れた屋根、精緻な装飾、典雅な色調は幻想的な色彩を呈して、その中に身を置いて、まるで仙境のようです。ここで言うと、「ハルピンは『東方モスクワ』と呼ばれるのも無理はない」と友達がはっと悟るかもしれません。確かに、上品で立派な東正教会、古拙で精巧な住宅とレストラン、それらはまた都市広場で飾り、またの分布は隣近所に住んで、壮麗なロシアの建築風格の主旋律の美しい音符になります。
(「東方小パリ」)ハルピンのもう一つの雅号――「東方小パリ」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、「まさかハルピンにもフランス式建築があるのではないか?」現在、その優れた建築芸術は同時期のフランス建築に少しも劣らないです。
南崗区西大直街には優雅で魅力的な大きな建物があります。ハルピン鉄道局のビルです。それは182までの長さを持っています。24メートルのまっすぐな面、このような長い立面を考えてみて、もし建物が通りに面しているならば、見る人は見渡すことができなくて、だから建物は64メートル後退して、建物と大通りの間で1つの小型広場を形成して、広場の上で至るところ松のコノテガシワ、花卉を植えて、濃い緑のイタリアと建物自身の暗い緑色の調は非常に調和しています。また、この建物の注目を集めているのは窓の穴に顔を貼ることです。円潤な曲線を採用して、ベランダの鋳鉄の欄干も曲がって絡みます。花の葉のように、糸のつるのように、躍動感があります。これらは全部「新芸術」建築の典型的な特徴です。全体の建築はまだらな暗い緑色の青石を使って面を飾り、華やかで精巧です。工事の際には石板を地面に敷き、順番に番号を付けて壁に一つ一つはめ込むという。このような工事のため、建築材料は優雅な外観を持っていて、ハルビンの「新芸術」風格のモデルになります。来ます
旧ハルビン人は今でも古い駅を忘れられないかもしれません。それは感動的な建物で、1899年に建てられました。その後、元の住所に新しい駅が建てられました。曲面の形の外観、楕円形の扉と窓、動感の曲線の鋳鉄の線の装飾を満たして、全体の建物を極めて伸びやかにならせて、波しぶきのようです喜んで跳びはねて、各種の自由曲線の海洋のようです。このような新しい建物を都市の玄関としてふさわしいです。
博物館広場にあるアムール川省博物館も美しい「新芸術」の建物です。もともとはモスクワのデパートです。フランスの建築様式のいくつかの要素が含まれています。伸びやかな建物は赤い黄色のリボンのように、広場の裾を丹念に飾っています。いつも太陽の光が建物の裏側を照らしています。広場には生き生きとした影が投げられます。尖った暗い赤色の正方形のドームがあり、ファンタスティックな中でバックを請け負うように、広場にロマンチックな底の色を加えました。ハルビンの「新芸術」の風格は中小型のテ路官公邸にも現れています。
これらの庭園の住宅には共通の特徴があります。自由曲線の底に自然界の動植物の形を模したさまざまな装飾があります。丸い半円形、扁遠行窓、さらに精巧な狭い台形の窓もあります。当時のロシアのデザイナーは、流行を追って今世紀初頭にフランスで流行した「新芸術」のスタイルをハルビンに適用した一方で、伝統的なフランスの古典復興建築にも目を向けた。颐園街の1番にある指導者記念館の一例です。この建物は元々名前のゲワリスキー住宅で、1909年に建てられました。
建物に入ると気高い気質に圧倒されます。まるでフランスの封建的な状元に身を置くような感じがします。この建物は二階建てで、屋根裏付きです。二階建ての巨大な科を採用してこの壁の柱に臨んで、華美で荘重です。典型的なフランス式メンサの二重折り屋根は深灰色で、さらに重厚な雰囲気を増しています。庭には数本のまっすぐなポプラが植えられていて、建物全体と一体化しています。ハルビンの古典復興建築はまだたくさんあります。東北烈士記念館、アムール川美術館、中国銀行ハルビン支店など。それ以外にも折衷主義、バロックの風格が盛んで、松浦洋行(今教育書店)はバロックの風格の非常に鮮明な建築物であります。立面の上の精巧で美しい彫刻、飛ぶ山花の曲線、優美な窓の穴の装飾及び深い赤色の旺盛なドームは淳和のヨーロッパの風格を体現しています。西洋の雰囲気が漂う美しい建物こそ「東方小パリ」の姿をなしています。(
その名の通り、ハルビン日本近代建築の影響も存在する「九一八」事変後、建築にはますます「和風」が現れました。もちろん日本の伝統建築ではなく、現在の色彩を帯びた近代建築です。日本の建代建築の影響を深く受けているのは国際ホテルで、元の名前は新しいハルビンホテルで、独特な形のアコーディオンの造型の建物です。ほら、強い縦線、z型の体量はまるでアコーディオンのようです。この「アコーディオン」は日本の近代的な楽章で演奏しています。壁には灰色の黄色の小さなセラミックタイルがあります。窓の穴の形は比較的簡潔で、上の下の階の窓の穴の間には繊細な浅いレリーフがあり、強い影の効果があります。他の建物はアムール川日報社、電報電話ビル、道里百貨店などがあります。都市建築の地主の旋律にはならないが、柔らかくて多様な楽章が欠かせません。
1926年にハルビン特別市が成立しましたが、実際にはそれぞれ奉系軍閥、吉林及びアムール川軍閥があります。これらの軍閥は依然として孔子孟の道をあがめ尊び、民族資本も日増しに強大になり、伝統建築もある程度復興した。この時期に引き続き普育中学(今ハルビン第三中学)、極楽寺と文廟などの中国式建築群を建設した。ハルビン文廟は1926年に建設されました。当時張学良将軍は碑文を書いていました。これを利用して民族文化と民族精神を発揚したいです。文宮は6ヘクタールの敷地を有し、その規模は大在東北地方随一です。
建物全体の雰囲気は三進院院で、もし文廟の建築群を俯瞰する機会があれば、きっと青松檜、斗拱飛軒によって造営された厳粛で穏やかな雰囲気を感じることができます。そのような気持ちは遥かな気質と熱烈なヨーロッパの風格は決然と違って、中国の伝統建築の広さと深さを感じられます。ハルビンは各国の居留民が集まるため、宗教の発展は多様化しています。宗教建築も同じ色を呈しています。ハルビンは東正教会堂を主としていますが、モスク、キリスト教会堂、タルタル寺も都市建築に明るく美しい一筆を加えました。
仏教の聖殿を代表する極楽寺は、寺院の建築の傑作とも言われています。長春般若寺、瀋陽慈恩寺、営口堅厳寺と並ぶ東北四大仏教の森の一つとして、極楽寺はその厳格な全体配置、豊富な経蔵、宝相荘厳な白玉仏像及び秀麗な七級の浮屠煉瓦塔で有名です。極楽寺のレイアウトは伝統的なお寺の建物の形によって、北は南に向いています。東西にはそれぞれ鐘楼と鼓楼があります。文廟の地は厳かで荘重で、極楽寺の超然静かさ、その他の中国式建築地の朱柱壁瓦はこの都市の別のきらびやかさを染める。(現代の雰囲気)新中国成立後、ハルビンの都市建築も新たなページを開いた。
20世紀50年代、ハルビンの都市建設は工業建築を主とし、その他のタイプの建築は公認文化宮、青年宮なども相次いで建造しました。建築スタイルは折衷主義を主としていますが、もう純粋な西洋建築スタイルではありません。80年代以降、ハルビンの新しい建物は日進月歩で、この時期はアムール川省軍事博物館、ハルビン市委員会ビルを代表としています。この二つの建物は全く新しい建築理念、繊細な設計手法、全く新しい建築語彙で時代の特徴を説明しています。更に貴重なところは新旧建築の対比と調和ができて、新しい建築の創作に構想を切り開きました。20世界90年代に入ってから、一つ星ホテル、オフィスビルなどが続々と松花江辺、繁華街の中にそびえています。都市の空の線に豊かなリズムを加えました。この時ハルビンは国際大都市の現代の雰囲気が溢れています。
哈尔滨景点导游词篇七
极乐寺--现在我们就去参观东北最著名的佛教圣地极乐寺,极乐寺是由北方名僧天台宗第四十三代亲传的弟子炎虚法师创办的寺庙,1920xx年动工修建,1920xx年落成,1920xx年开光电力,站地面积57000多平方米,它既是佛教徒参蔼朝拜地北方佛教圣地,也是中外有人观赏游览的名胜所在,已被列为全国重点开放寺庙和省级重点文物保护单位。
极乐寺名字究竟是怎么来得呢?因第一坛说法的内容是阿弥陀佛经,又因发起人陈飞清信奉净土宗,都与极乐净土相关联,“极乐寺”庙名就由此而来。极乐寺的整体设计形式布局和建筑结构,均保留了我国寺院建筑的风格和特点,寺院座北,面南,临街,首先映入烟蒂的是钟楼和鼓楼,庙庭内,横向分左中右三个序列,中轴线上依次为弥勒天王殿,大雄宝殿,西方三圣殿和藏经楼,东,西院落分别建有禅房和斋房。如此这般排列有序,左右对称的院落,可以使来访的参观游客和信徒们有秩序的、有层次的观赏全部院落,好了,车前防洪涩的妙语就是极乐寺了,请大家随我一起体会一下这种意境吧!大家请注意两点事项:第一,妙语殿堂内不许摄相拍照,院落内可以。第二,进入殿堂内不允许踩门槛,传说妙语殿堂内的门槛下睡着善神,所以大家脚下留情,在这里我们要进行30分钟的参观。各位团有请随我入庙。
首先大家集体随我向后转,庙门正额上方浮刻“极乐寺”三个一米见方大大字,笔力苍劲浑厚,落款有“民国十三年七月南通张謇”字样,张謇是清朝末年江苏南通的最后一科状元,后来“下海”办实业,成为中国近代著名的实业家。
现在请各位回过身来,看左右两边,分别是钟楼和鼓楼,佛家弟子讲究晨钟暮鼓,从早上敲钟开始到晚上撞鼓结束一天佛事,也称功课。每早每晚要各撞108下,为什么呢?对此持有两种看法,第一种是说,一年有12个月、24个节气、72侯,古代五天为一侯,按360天计,一年分72侯,大家加一下,是不是正好是108?那么另一种说法是众生界有108个烦恼,撞一下就解一个烦恼,常言道:闻钟声,烦恼轻,智慧长,菩提生。若大家有机会不妨亲身尝试一下。
“远烧香,近拜佛”请各位随我入前殿一弥勒天王殿,各位团友,首先映入眼帘的就是这位笑口长开,大肚宽怀的佛像,他叫弥勒佛,根据佛教说法弥勒佛是释迦牟尼的“法定”接班人,不过它要在56亿万年后才能降临人间,菩渡众生,所以弥勒佛就是人间崇拜的未来佛,我们现在看到的弥勒佛,大耳垂肩,横额方面,一副喜眉善目的笑模样,眼前皆是有缘人,相亲相近,怎能不满腔欢喜?有道是,大肚能容天下难容之事,慈颜常笑世间可笑之人,看到他,天下还能有什么不能宽怀的呢?来来来,让我们在弥勒佛前拜一拜愿各位万事如意,笑口常开!面前的相对而立,各个好似我国古代的将军,这就是四大天王,俗称四大金刚,他们手持的法器通过谐音和联想分别象征着“风调雨顺“,手持青锋宝剑的是守护南方的增长天王,“峰”和“风”同音,手持琵琶而没有弦,需要调音,表示“调”的是东方的持国天王,守护北方的多闻天王,手持雨伞显示“雨”,而西方广目天王手绕缠龙,降魔降妖,保护众生,他是群龙之首,众龙都顺从他,合起来就誉为:风调雨顺,国泰民安。
民间流传着这样一句话:进门拜弥勒,出门拜韦驮,大家情随我转到殿后,眼前这尊佛像,木制贴金,高大威武,手托金刚杵,这就是位居四大天王手下的三十二位神将之首的韦驮菩萨。为何韦驮菩萨面向大雄宝殿呢?据说古印度佛寺内的大雄宝殿,为佛祖灵堂,宝殿前安放的释迦牟尼舍利塔,有个“捷疾鬼”偷走了佛祖的两颗佛牙,能行走如飞,飞驶抓贼,夺回佛牙。之后它负担起守卫佛祖舍利塔的任务,所以在寺庙中他面总想内。
各位团友,一座二重飞檐,其实巍峨壮观,仿宋代宫殿式建筑--大雄宝殿就在我们眼前,它的结构为重檐歇山式,是极乐寺的主体建筑,位置处于整个寺院建筑的中轴线的中心,大殿高大敞亮,金壁辉煌,飞檐翘起,优美威风,檐下挂着风铃,每当清风徐徐吹来,很远就能听到清脆悦耳,优美动听的“叮当声”。大家请看,殿前放友铁香炉,炉上“大化陶炉”四字,是何含义?“大化”意为佛的教化,“陶”有造就,培养之意,“容”可作为熔铸金属之解,综合四字,意为“按佛教教义规范培养教徒,使顽者规划,脱胎换骨。这里是大雄宝殿,大雄意为像大像勇士一样,一切无谓。好,现在请大家入殿参观,正中坐在莲花座上的就是佛教创始人释迦牟尼,他胸前的金色“”符号,唐代武则天把他读作“万”,意为万德吉祥。
关于释迦牟尼,历史上确有其人,释迦是一个种族德名字,牟尼是圣人德意思,相传他是古印度北部迦吡罗卫国,现为尼泊尔境内,净饭王的儿子,原名为乔达摩.悉达多,他从小善于思考,司然自己过着舒适的生活,但有感于现实人生中的生,老,病,死等种种现象,认为要拯救人类,只有通过出家修行,才能找到解脱苦难的道路,他29岁那年,进入森林,去寻找解脱苦难的真理,经过六年含辛茹苦修行,到了35岁,终于在菩提树下修炼成功,创立了能使众生脱离苦海的佛教,成为佛教的创始人,这是2620xx年前的事。各位团友,经说法呢?佛祖左边站着的长者叫迦叶,右边站立的青年叫阿难,他们是佛祖的得力弟子,佛祖逝世后,迦叶主持了佛教信徒第一次聚会,阿难是佛祖的堂弟,聪明智慧,擅长记忆,跟随佛祖20xx年,把佛祖生前的话写在贝叶树的叶子上成为佛经。
大家仔细快拿,这三尊大佛形状高大,每尊佛像修眉宛如一均新月,双目恰似一泓秋水,流露着关注人间何洞察一切的智慧的光芒,是美的理想化身,木殿的两旁素有罗汉像,东南两边何起来共有16位,他们都是在我国晚唐何五代时期出现的北宋之后才开始盛行18罗汉,那么多杵的两位罗汉到底死谁呢?民间认为降龙和伏虎两位罗汉,总之上述这些罗汉都是释迦牟尼佛祖的亲传 弟子,释迦圆寂时特意嘱托,让他们不如捏盘,永驻人间,弘扬佛法,菩渡众生。
大家请随我右行前走,这位身骑狮子,手持宝剑的普通撒就是文殊菩萨,他象征着智慧和锐利,各位女士一定要拜一拜,求夫求子多平安。左边这位手持如意棒,身骑六牙大象的是普贤菩萨。在大殿的后壁,就是大家熟悉的观音塑像,左手持净瓶,右手持杨柳枝,因其大慈大悲,救苦救难,人称滴水观音菩萨。位普济众生,观音怾显示三十三身在南朝后,位更好的体现大慈大悲和方便闺房小姐供奉,产生女性观音像。
大家请随我前往后殿西方三圣殿参观,这里供奉右南无阿弥托佛,观世音菩萨和大势至菩萨。刚刚我们讲过滴水观音,也许有人会问观世音是谁,是男是女,好,先让我们从观世音的身世讲起吧,“观世音”是梵文的译音,意为阿婆罗,其实观音菩萨在印度是男身,据佛经讲,他原是王太子,成佛后是阿弥托佛的左夹持,与右夹持大势至菩萨合成“西方三圣”,要说观音是男是女,从佛经的角度讲,无所谓男女,那么,中国女性观音始于何时?据初步调查,女性观音造像于南北朝时期,兴盛于唐朝,大了明朝观音普遍位妇女神,因佛教传入中国,逐步融合进中国民族文化而渐渐演变。而女性观音也是人们易于接受的一种慈悲和美的化身。
三圣殿的回族要任务是通往西方极乐世界的检查站。只有那些生前积德行善的人,死后才鞥得到西方三圣发给的去往 天堂的通行证。否则,生前作恶多端的人,死后三圣就只能把他们打入十八层抵御。
最后是藏经楼,里面收藏的是经书,如果有人要参观,需要单独买小门票,1989年3月里面增设了两尊释迦牟尼饿白玉雕像,身高1.5米,精雕细刻,是香港僧侣届人士赠送的,国内罕见。
寺内僧侣80 多人,万年全右增人自己管理。每年的农历四月初八,十八,二十八为庆佛日,热闹非凡 !
哈尔滨景点导游词篇八
现在我为大家介绍一下位于太阳岛风景区的哈尔滨极地馆。哈尔滨极地馆是由大连圣亚旅游集团投资两亿元兴建而成。它是世界第一个风、雷、雨、电交织的极地馆,拥有世界第一座穿越两极的海底列车,是世界第一座实现室内环球旅行的极地馆。在这里,我们不仅可以近距离观赏北极熊和南极企鹅,有机会与极地白鲸亲密接触,更可以在最大的极地白鲸全视角展示窗中看到两只白鲸宝宝的优美舞姿,在这里还可以观看到世界首例全景立体的精彩绝伦的海狮表演。还等什么,快同我一起加入这个神秘乐园,亲历一次神奇、欢乐、梦幻般的环球旅程吧!
[欢迎词]
迎着清晨这一屡灿烂的阳光,沐浴着这清凉的春风,我们今天的海洋之旅就要在这明媚的春光中拉开序幕。大家好,欢迎您加入我们的极地之旅。我是您此行的导游,我叫__,大家叫我__就可以了,中国有句俗话说的好:有缘千里来相会,无缘对面不相识。今天我们有缘相聚在哈尔滨极地馆,这真是一种奇妙而美好的缘分,那么就让我们将这美好的缘分进行到底,在本次的旅行中,如果您有什么问题可以尽量向我提出,我会尽我所知为您解答,因为您的满意是我们永恒的追求,您的快乐是我们最大的快乐。
[总体介绍]
想必您一进来就已经感觉到极地馆的欢乐气息了吧,在这里您一定会大开眼界的,不过您不要着急,我们要慢慢地享受海洋带来的乐趣,首先我向您介绍一下哈尔滨极地馆概况:极地馆景区共一万多平方米,总投资2亿元人民币,集极地景观、极地动物展示、体验于一体的世界最大的专业极地馆。共有大兴安岭、渔人码头、“太阳岛号”游船、鲸鱼弯、南极企鹅岛、北极动物家园、北极村、海底车站、海底列车、冰海巨鲨、海狮王国等观光区域和精彩互动项目组成,其中贝壳型仿生建筑和全视角白鲸展示窗的规模为国内之最。下面我就在欢乐的节拍中开始我们的极地之旅吧!
1.大兴安岭
大兴安岭展区,是运用高科技的声、光、电展示技术与技巧,为游人逼真刻画的一幅大兴安岭的原始风貌图。旋转的采风车,红透的旧壁炉,欢快的老水车,还有猎人小屋里悬挂的鹿头、猎枪、弓和弩,森林猎人的本色生活就这样一一呈现在游人面前。
2.渔人码头
它是仿造美国旧金山渔人码头的原貌精心建造的。展现在游人面前的是一幅椰树、蓝天、海岸、沙滩交相呼应的浪漫景色。在这里同样也生活着数十种、近百尾珍稀鱼类.
3.“太阳岛号”游船
“太阳岛号”木质游船是按照古帆船的真实比例精细打造的.它是目前国内主题乐园中构思最为奇特,装饰最为精美的室内游船景区。
4.鲸鱼湾
鲸鱼湾是南极鲸鱼洄游的必经地和聚集地。1911年,挪威探险家阿蒙森就是由此登陆,成为世界上第一个征服南极的人。
5.南极企鹅岛
现在我们要参观的就是来自于南极企鹅了,他们是世界第一批群体登陆中国的南极企鹅家族。南极企鹅岛里面放养了17只企鹅,其中白眉企鹅15只,王企鹅2只。这支南极“企鹅军团”途经新西兰—日本—大连,最后到达哈尔滨的。其中一只雌性王企鹅还不到1岁的,是中国第一只人工繁育成功的南极王企鹅宝宝。好了各位游客到这里极地馆的参观就告一段落了,大家也许还感到意犹未尽,下面的时间里大家可以拿起手中的相机和我们这些海洋明星们合影留念了,请大家抓紧时间。
6.北极动物家园
下一站就是北极动物家园,两只身材庞大的北极熊。这两个“大家伙”来自俄罗斯,雄性,年龄都在3岁左右,每只体重都400公斤左右。自从他们来到哈尔滨极地馆后,胃口特别好,每顿能吃12公斤的食物,鱼类当然少不了,还有牛肉、西红柿、胡萝卜、西瓜等。北极熊是北极的代表。
看完了北极熊,我们再来看一下可爱的海豹吧。这里有三只海豹,看可爱吧,斑海豹体粗圆呈纺锤形,体重20~30千克。斑海豹食物以鱼类为主,也食甲壳类及头足类。主要产于渤海、黄海,东海也有发现,个别远达南海。属于国家一级保护动物。如果您有兴趣可以给它拍张照,还可以在专设区域喂食斑海豹。
7、北极村
世界最大的极地白鲸全视角单体展示窗,整块玻璃厚度为35cm,面积5平方米。透过它,您可以毫无遮拦地清晰看到白鲸宝贝在水下的一举一动。大家看可爱吧,这可是黑龙江省首次登陆的呀,白鲸还有个很可爱的名字叫“海中金丝雀”白鲸是鲸类王国中最优秀的“口技”专家,它们能发出几百种声音,而且发出的声音变化多端,叫人惊叹不已。能够亲临聆听白鲸的歌喉,是一种难得的享受。现在就请拿出相机和我们可爱的白鲸拍一张明星照吧,另外大家在近距离观看白鲸的同时请不要敲击板窗,谢谢合作。
8、海底车站
透着幽蓝色光柱的,充斥着蒸汽时代的重金属质感的神秘地带,就是我们的“海底车站”。
9、“鲨鱼号”海底列车
欢迎搭乘“鲨鱼号”海底列车!本列车是世界上第一座穿越南北两极的海底列车。从船舱两侧的舷窗中望出去,沿途您将会看到许多珍稀的观赏鱼,。
10、冰海巨鲨区域
这里生活着五条来自南非的凶猛鲨鱼及各种珍惜鱼类。接下来我们要参观的这个场馆,就是最惊险的一个动物展示场馆。
11、欢乐海狮王国
环球旅行的最后一站——欢乐海狮王国。在这里,有800个座位,可同时容纳1000—1200游客,可观看世界首例的全景荧光隐形立体壁画和3d动画3只聪明娇憨的海狮明星和一只南美海狮将在驯养师的精心调教下,为您献上一台精彩绝伦的滑稽剧。在火爆的音乐下,他还能跳街舞。还能为游客表演另人震撼的空中飞跃,并会摆出独具个性的pose,与您拍照留念。我相信,在这些“大明星”们的陪伴下,您一定会度过一段快乐而又难忘的旅行时光的!
海狮原产于北美加利福尼亚洲沿岸以及北太平洋、南美、澳大利亚和新西兰等地,它体形细长呈纺锤型,颈部较长,两只耳朵较小,前肢长于后肢,呈桨状,后肢较发达,能支持身体并在陆上行走。海狮是一种鳍足类动物,生物学家认为鳍足类动物和胡狼源自同一个祖先。大约在三千万年前,海洋里的食物资源大大增加,在那时有些象犬类的肉食性动物开始慢慢转移到海洋里来寻找食物,为了能适应在水中觅食,他们的身体和生理产生了很大的变化,他的四肢演化成鳍状以方便在水中游泳,经过长时间的演变进化,就形成了现在的鳍足类动物。